地下足袋山中考 NO23

<森吉山スキー場の変遷E バブル崩壊とリゾート法の見直し>

山頂部開発を断念した1990年は、前年に38,915.87円の最高値を付けた株価が10月には20,000円割れとなり、後にバブル崩壊の始まりと言われた年である。しかし、リゾート法に後押しされたスキー場、ゴルフ場、ホテルの三点セットの全国開発はピークを迎え、地価と株価はいずれ回復するという思惑が支配していた▲1990(H2)12月、森吉スキー場にはヒュッテがオープン(120)し、第二高速リフトを増設。阿仁スキー場はサンシャインコースを新設(1.1キロ)し、ゲレンデの整備に力を注いだが、1996(H8)年度に85,000人を数えた阿仁スキー場は激減の一途を辿った(後の2007年度には44,000人へと半減)19961997年にかけてはバブル崩壊に伴う大手銀行の破たんが相次ぎ、バブルの後遺症が表面化し各地のゾート施設が破産に向かった時期である▲リゾート法制定時はバブル経済を背景にしたカネ余りもあって、地域振興に悩む地方では大いに期待された。ほとんど全ての都道府県が計画策定に取り組んだ結果、国土の三分の一がリゾート法の指定地域になったと言われている。その一方で、環境面の問題が当初から指摘され、バブル崩壊もあいまっての計画の破産など、法成立当初から実施後も含めて様々な批判が寄せられていた▲2004年に入るとリゾート法の見直しが始まった。国は基本方針を変更し、各都道府県は政策評価を行ったうえで基本構想の抜本的な見直しを行うよう求められた。このため各県においても「リゾート構想」に係る政策評価を行い、廃止する傾向が強まった▲そもそも、国土の三分の一がリゾート法の指定地域なった背景は、1985(S60)9月のG5によるプラザ合意あったと言われている。当時、ドル高と貿易赤字に悩むアメリカ合衆国は、G5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表。これにより、急激な円高が進行し1ドル240円だった為替相場が一年後に120円台まで急伸。中曽根内閣は貿易摩擦解消のため、内需拡大策を国際公約し、これまでの緊縮財政から一転し、公共事業の拡大政策に舵を切った。急激な円高による不況を防ぐためや国内需要を拡大するために公定歩合、法人税、所得税高額税率の引下げに加え物品税を廃止。一連の低金利政策が不動産や株式への投機を促進し、日本は好景気に向かう▲この内需拡大策を補完するため生まれたのが1987(S62)年に制定された総合保養地の確保に関する法律(リゾート法)であった。規制緩和と優遇税制に誘導された構想は大規模であることを要件とした。スキー場、ゴルフ場、リゾートホテルの三点セットやテーマパークが需要無視で整備された。このため全国では大型スキー場といわれる施設が倍に増え400を超えた▲時はバブルの絶頂期、翌年の1988(S63)年には、竹下内閣の「ふるさと創生1億円事業」が開始。都市と地方の格差是正のため各市町村に1億円を交付した。自ら主導する地域づくりをテーマに地域の振興を図る動きが各地で試みられたが、温泉ボーリングの失敗、無計画なハコモノやモニュメント、純金の作り物、村営キャバレー等々、後に最大の無駄づかいと揶揄された。当時の阿仁町もスキー場ペンション団地の一角に温泉ボーリングを試みたが、見事に不発に終わった。需要無視の国策リゾート開発は、バブル景気の後退とともに各地に負の資産を残し撤退(売却、廃業、譲渡)に向かった▲当初、阿仁町民有志が抱いた森吉山スキー場構想は、リゾート法に関わりなく純粋な地域活性化策として練り上げ、県の全面支援で完成させた施設であったことは確かであるが、利用客の減少に歯止めはかからなかった。2002(H14)7月からは、登山客のニーズに応える「花の百名山紀行」のゴンドラ通年観光を本格化させたが、時すでに遅く大手デベロッパーの盛衰に翻弄されていくことになる。

<メディア情報参考>(2010.11.14)<次号につづく>